慶応義塾大学に合格した長男の勉強方法が堅実さを物語る

兄は慶応義塾大学 妹は津田塾大学を卒業して今は社会人です。

3歳違いの兄・妹の母親です。

現在は二人とも長じて、

互いにsnsを飛ばしこちらが小走りで、何とかついて行っています。

息子は慶応大学(文学部)湘南藤沢 慶応 / 娘は津田塾です。

私の「子育て」は実に30年続きました。

決して優秀な子供たちではなく

「失敗するとやり直せばよい!」が教育者の父親の考えでした。

 

保育者の私は子育てを楽しむことを最優先にしました。

父親が息子を怒ったのは一度で、勉強は大切な事だと言い諭しました。

息子はその時のことについて作文を書いたことを知りました。

大人でもご飯をこぼすこともあるにもかかわらず子に

「こぼさない!」とは、とても言えない・・・

が子育てを始めた当初の正直な気持ちでした。

 

「子育て」は自分人生の繰り返しです。

入学式・運動会・遠足・マラソン大会・・・どれも繰り返しでした。

子供により 1+1=2 をそのまま受け入れられる子と、

なぜ 2 になるのか納得できるまで説明をして、受け入れられる子と、

自分の子供の頃を思い出しながら、勉強をしながら日々過ぎていきました。

 

面白いのは音楽の楽譜をすぐに覚えてしまってサラリッと弾いてしまう子、

いちいち音符を見ながら(読みながら)しか弾けない子

前者はすぐに忘れますが、後者は忘れません。

親が性格を見極めることが個性をつぶさない、型にはまらない子が育つ気がしました。

 

トータルではどちらが良いとも、悪いともなく過程が大切と思っていました。

なるべく多くの引き出しを付けていつでも取り出せることが、親の仕事だと思っていました。

片手で数えきれないほど・・・多くのお稽古をして

 

息子は「スキー」と「水泳」が得意で今も楽しんでいます。

ソコソコの成績で”ソコソコ坊や”と笑っていましたが、

高校や大学では部長・主将をしてこれも要素にはなりますした。

 

娘は3歳から始めたヴァイオリンが、結局最後まで続き、

大学の志望動機も小さな室内楽のオーケストラがあったからでした。

着替えとおむすびを車の中に入れて、いわゆるお稽古の梯子でした。

 

小学校は二人とも教育学部付属小学校でした。

(地方に住んでいたので選択肢は多くなかった)

体験教育を実践する付属ですから母親の手伝いは、想像を超えて、

フリーな母親は楽しみで学校に通っていました。

(子供が客観視出来ます)毎日書く”シート”

という原稿用紙(日記)で文章力がつきました。

卒業時は一人一人製本にしてくださいました。

 

先日も父親と話していた事が、

読書感想文を書いた時の事、毎日毎日添削をしていただき、

12時近くまで小3の息子は原稿用紙の最後のマス目を

読点で終わるように書き直し続けて、賞をいただきました。

これが後の人生のための大きな勇気付けになりました。熱心な先生方でした。

 

ただ、ほとんど机に座っていることが少ない

(畑・山・川に出かける)ので親は家庭で、

あるいは塾で到達度に達していない学力・項目は、

補う必要が入学時に義務付けられていました。

しかし、それも楽しい思い出です。

 

中学もそのまま付属に進みました。

息子のピアノが、だんだん疎かになっていきました。

娘のヴァイオリンはメソッドで、勉強方法として音楽は役に立ちました。

親も子も毎日が精一杯に過ぎて、アッという間の3年間です。

 

高校入試は、ほぼ全員、同じ高等学校を目指す勉学でしたから、

親はサポートをするのみでした。

地方の県立高校(進学校)は予備校化されて普通に東大二けたを目標にしていました。

それでも”馬に食わすほどの問題集”をこなすことがいつの間にか平気になっていました。

 

高校に入って、息子と娘の個性がはっきりしてきました。

それでも息子は変わらず、

学校は”友達に会うところ”のように楽しんでいました。

世にいうお利口さんな息子ではなく、

寧ろ掃除はサボって裏山に登ったり、

お弁当は2時間目にはなくなっていました。

呼び出されて、私が笑って聞いていますから今思うと先生もお気の毒でした。

娘は部活を熱心にして友達の面倒見の良い子でした。

 

大学の受験勉強で一番思い出に残っている勉強方法は、

一つの問題集を何度も(4~5回)やりました。

一度終わると私が消しゴムですっかり消します。

そしてまた最初から始めます。

小学校の時から100点でない答案は正解でないところをノートに私が書き写して、

100点になるまでやりました。

この方法は息子が入学した大学の他の友人も父親が、

同じ方法だったと後になって話していました。

 

息子は、大学受験では失敗をして希望の国立大学は不合格になりました。

予備校の先生が「何もしないで合格するのは役に立たず、

努力をしてこそ身につくものがある」

と言われたことを思い出します。

春の新芽が出て夏がきて、さらに葉が落ちて・・・

次の春を考え、息子と付き合う時間を考えました。

しかし、すぐ次の春はきます。

この挫折が息子を謙虚な人間にさせたのです。

年齢構わず、どなたにでも分からない事は尋ねることが平気になりました。

 

二度目は国立も慶応も合格しましたが、国立にはいきませんでした。

大学を決める時、小さいころから可愛がっていただいた、

歴史学者の先生に”その日”の朝お聞きしました。

今は亡くなりましたが「世界に通じる大学は慶応だ!」の言葉に感謝しています。

 

娘は息子の予備校の入試マニュアルをそのままもらって、

幸いセンターで高得点が取れ希望の公立に合格しましたが、

娘も私立を希望しました。

娘の時は、息子がお世話になった予備校の先生に相談しました。

先生は「出来れば津田塾に・・・」といわれました。

何が大切か・・・親は経済その他をいろいろ考えますが、

我が家は“その時”に的確なアドバイスを頂ける人がいる幸せを思いました。

もちろん父親も本人の希望通りを望みましたし、

何より経済を一手に、引き受けてくれていました。

 

息子は10年間大学に在籍しました。

学部・大学院・大学院、珍しいケースでしたが本人が将来を考え、

何よりも幸せなことにお世話になった大学の先生を慕っていました。

 

現在は中学の時から勉強をして(中二の冬一人で出かけた)

エジプトでの仕事に就いて思う通いりに生きています。

これからまたどうなるのか・・・私も分かりません。

もうアドバイスをすることは勿論できません。

 

娘は仕事をしながら家庭を持ち、かつて私が彼女たちにやったことと同じ事を、

刷り込んだようにやっています。言葉ではない刷り込みは、

もしかしたら私も親から刷り込まれたのかもしれないと・・・

最近、30年にわたる「子育て」はこれまでと修了宣言を出しました。

 

懺悔と申しますか・・・二人ともニンジンをぶら下げられた馬のように、

文句を言わずよく走ってくれました。心から有難うと思っています。

 

小さな子供の手を繋いで、通ったお稽古でした。

ビデオカメラに収めるよりこの”手を握って覚えていたい”

と雨の日も、雪の日も歩きました。

ところが愉快なことに先ごろ聞いた話

・・・母親の手はザラザラとした肌荒れた手に驚いた

・・・そうです。

ハンドクリームをつけた手でおむすびは握れないでしょ!と笑ったのでした。

しかし、自分が親になるとなんと!

母親の水仕事の多いことに驚いたそうです。

 

「子育て」は、世の中のニーズに合わせて変化するものと、

そうでないものがあると思います。

変わらないものは食の大切さだと思います。

母親の味を知らないと帰るところがありません。

 

私がPCを覚えたのは子供の受験期です。

情報を多く持っていると、選択肢は広がり、

子供と同じ土俵で話すことが可能です。

現在もそうですが、常に共通のデバイスです。

今年は東大の合格発表は掲示板は止めるそうです。

昔から続いた伝説の”東大生の胴上げ”は昔話となっていくのでしょうね。

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